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虹色のパレット

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4.教育と言うこと

4.教育と言うこと

 こうして、私が教師になって、子供達と関わり教育と言うことを体験しながら、教育って何だろうなと考えてみた。

 ただ単に『教え、育てる。』と言うことだけでなく、『教えることであり、育てることであり、そして、教えられることであり、育てられることである。』と思うようになった。
 『教育』とは、自分や人や物との関係の中で、『教え、教えられ、育て、育てられ』しながら、生き物の組織のように関わり合い、調和し合いながら発展していくことだと、子供達との関り合いの中から学んだ。つまり『教教育育』。一方通行ではなく、ダブルの両側通行なのだ。もし、学校教育にしろ、家庭教育にしろ、自分が関わっている教育がうまく行ってないと思ったら、「教教育育」の響き合いがなされているか反省してみるといい。それだけで大分違ってくるはずだ。

 私は、子供に教えていた積りなのに、気が付いてみると子供から教えられていた。教えられ私が少し育つと、それと一緒に子供も育っている。そう言う場面が沢山あった。何処から何処までが教えることで、何処から何処までが教えられることだ、今、子供が育ったから、次ぎは私が育つんだ、と言う風にはっきり分かれているこどではない。

 例えば、自分の手は、自由に動くけれど、何処からどこまでが筋肉の働きで、何処から何処までが骨の働きだとか言えないのと同じで、自分の意志の働き、神経や内臓の働きもある。色々なことが、関わり合い、調和し合って初めて手が動く。
 それに、自分の体を作っている物質や手を動かすエネルギーは食べ物と言う物を通して自分の体に取り入れられる。その食べ物だって、細菌やプランクトンから、太陽や土や空気や水、何百という人、いろんな物や生き物との関わりを経て自分の手に入る。

 手の動きと言うような事だと、目に見える部分があるから、「なるほど。」と分かりやすい。所が、人の心、心の動き、教えたり教えられたり、育てたり育てられたりという事になると、目に見えないと思いこんでしまう。目に見える物とか事とかの影に隠れて見えにくい。でも、ほんのちょっとでも、人が、目に見えにくいものでも見ようと心掛ければ、そこには、限りなく開かれた生き生きとした、発展的な楽しい世界が見えてくるのという事を、私は、子供たちとの生活を通して知るようになっていた。

 普通、教育という場で、教師とか母親、父親とかいう大人が子供と関わる時、教えるというところからはじめる。そして、それはとても大切な事だ。
ところが、「この子は、我が侭で困る。言う事を少しも聞かない。」とか、「全くこの子は何を教えても、少しも分からない。」とかいう教える大人の側からの不満やネガティブな発言ををよく耳にする。
 私は子供と関わっているうちに、子供を非難する前に、ます、「何故、この子は言う事を聞かないのか。」「何故、教えても分からないのか。」というところから出発しないと、私とその子の間には何時までたっても、言う事を聞かない、教えても分からない、という関係以外になにものも育たないんだという事を知った。
 そして、その原因を子どもの中に見つけようとしないで、まず、自分の中に探してみる。知識ばかりでなく、人としての生き方ということまで含めて、教えようとしている事を私自身がはっきり掴んでいるのだろうか。子供に対して教えたいことがあるんだという自信があるかどうか考えてみる。 
 自分にも良く分からない事を教えようとすれば、自分中に教えるという事に対して迷いがあれば、子供は本来目に見えないものを見る力が備わっているので、そういう大人の不確かさや迷いを直感的に見ぬいてしまう。子供たちは確かな事を自信に満ちた大人から教えてもらう事を強く望んでいるようだ。大人が迷い自信をなくせば、子供は何を信じていいか分からなくなる。子供は進むべき方向の道標を失い混乱し不安になり、反抗的とか反社会的とか言われる行動を取るようになるのだと私は思った。
 それに、教えるというところから出発しても、私自身がそのことから教えられ、学び、育ち、そのことをまた子供に返し、そして、子供の私も育って行く。だから、ただ教え育てようとするだけでは、自分に学ぼう育とうという気持がなければ、いくら教えても子供は学んでくれない、育ってくれないという事も発見した。

大切な事は、教、教、育、育。教え教えられ育て育てられ、そうして共に育っていくことなのだ。



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